シン・エヴァンゲリオン、おつかれさまでした

 2020年の3月9日、シン・エヴァンゲリオン劇場版を鑑賞してきた。TVアニメ版放映時は大学生だったのだが、もう回数も覚えてないほど受けてる人間ドックの帰りに観たんだからね、どんだけ年月経ってんだよ。

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 本文、リンク先にもネタバレあり。また、作品全体に関する印象を述べてるので、他人の評価に影響されやすい人は回避したほうが良いかもしれない。いまの印象を保存してるだけの駄文・散文だから。

 最初に、声優の演技はいずれも凄かったと表明しておきたい。どんな表現手法であろうと、それを解釈して音声に落とし込んでいくプロ意識の高さは驚嘆したし、年月の経過をネガティブに感じることもなかった。これはすごいことだよ。いや、いつも感心してるんだけどね。25年を経てほとんどの人が息災なのも良かったとしみじみ思う。パンフレットのインタビューが困惑だらけなのも、余計に凄みを感じた。キャストそれぞれの解釈があるから、あんな作品を感覚的に理解することができる。 

 

 で、シン・エヴァの感想がちらほら出てきて、違和感として表明された部分にはおおむね同意しかない。なので、感想への感想メモみたいなものを残しておきたい。

  まず増田だけども、メタ的な称賛からのシナリオへの不満みたいなもの。

anond.hatelabo.jp

 自分にはできないから批評はしない、なんてことはしなくていいよね。そこはそういう土俵じゃないんだから。好きなだけ批評していい。不満でもいいよ。不満があることと、作品の好き嫌いとは別の話だ。

 シナリオについて最も違和感を感じたのが、マリの唐突さというのは同じだった。あそこだけ納得できる理由に到達できない。代償行為とか投影とかの理由は安易に思いつくけど、それでも長い歳月を越えて命を懸けるだけの情動には至れなかった。

 おそらくああいう結果が先にあり、それでもそれを裏付ける、マリがシンジに執着する理由ぐらいは(制作側の誰かによって)考えられているのかもしれない、とは思っている。だから、観ている側もそれをなぞるつもりで想像することはできる。けど、衝動が先にないから生きてる感じがしない。

 これは、パンフレットのインタビューを読むと余計にそう思えてしまう。要するに、マリは知らない他人として扱われていたのだよね。ただ、そうなる必要があるからそうなっている。マリに誰が投影されてるかはわからないけど、違和感が残るのはそのせいだよね。気持ちが重ならない。難しい役だよね、これも。

 そして、そこらへんもメタ評価に振って消化している感想。

fumofumocolumn.blog.jp

 このメタファーの解釈はとてもしっくり来る。やはりマリに投影されてるのはファンなんだろうと思う。誰が投影してるのかまではわからないけど。

 そも、自分にとってのこの作品の位置付けは「オタクはオリジナルを創造できるのか?」というチャレンジをみんなで見守るもの…になっているので、そういう意味では、ループだろうとなんだろうと終わるなら大団円だった。そして、オリジナルを生み出すために、キャラクターに自分自身を容赦なく投影するという恐ろしい手法が選択され、結果として結末が本人がそれまでに得てきた経験や知性に束縛され、オタクの稚拙さや社会性のなさがどうしても表出してしまう、というかつての展開。

 だから、今回も結論は「うまくいかない」ではあったと思うんだよね。

 旧劇場版のあと、その問いかけに対するアンサーはたくさんあって、要するに、たとえ我々がフェイカーであったとしても、そこに惹かれた記憶を糧に何かを再生産し、問いかけ続けることに価値はあるだろ、という回答が大半だったように思っている。シン・エヴァが持っている、どこか冷めた落ち着きは、そういう回答も受け止めたうえでの「おれらスーパーオタクだから価値あったわ!」という提示にも思える。それを斜に構えずにできるぐらいには大人になった、ということなのかもね。

 もちろん、自己を愚直に投影するシナリオ手法は変えられないにしても、もっとうまいことやる方法はあったのではないか、という疑念が付きまとうのだけど。いまは何かを創作するハードルは当時よりも格段に低くなっていて、情動を維持するコストは当時よりも高いかもしれないのだけど、それでもトータルでみたらずっとやりやすくなっていて、商業化作品に絞っても、把握しきれないほど世に出てる。そこには、うまくやれているのもあるんじゃないかな。 やはり、MEMEというのはあるよ。

 そして、そういう手法として見届ける客観的な視線。

font-da.hatenablog.jp

 現実との対比という観点で、とても共感というか感心した。

 みんないろいろ言いつつも、心底満足はしてないんじゃないかね。オタクのチャレンジをみるイベントとしては大団円ではある。けど、観る側がそこに配慮して、メタ評価なんてしなくていいんじゃないかと思ってしまう自分もいるんだよなあ。でも、そういう作品なんだから仕方ない。要するに、差し障りのない形で「おまえらもこっちに来い」と叫ぶことも目的だったのだから、そういうメタ評価にまんまと乗せられるしかないのだ。

 そして、自己を投影してさらけだす手法として評価していくならば、自身がどう変化しているのかという話になってしまうわけだよね。25年も経ってしまうと、選択の蓄積によってどこに到達しているかには乖離が出てきちゃうわけで、かつてど真ん中の視聴者だった側からも「どうやってそこに?」「そこに行ってしまったか」「そこはもう通った」みたいな感想の幅が出てくるわけだ。

 いまにして思えば、TVアニメ放映当時や旧劇場版の公開時にも、そこそこ年配のオタクにそういう反応はあったんだけど。いまならなんとなく気持ちがわかる。

 けどもう、そういう現実とどう折り合いをつけるか、各々が各々の方法を身に着けてしまっているんだよね。まったく違う状況にいる人と意思疎通ができない。そんなことはもう何度も味わったでしょう。25年という歳月はそれなりに重いよ。だから、庵野監督もエヴァが好きでよかったわ…という反応が、俯瞰で見たときにすごいんだ。

 そういう視線で鑑賞していると、その表現に対する感動よりも先に「おまえらの好きなもんはよくわかった」という想いがしみじみとこみあげてくるのだ。私の鑑賞中の気持ちもほとんどそんな感じだった。歳を取って緩くなったはずの涙腺もぴくりとも反応しない。シン・ウルトラマンつくれてよかったよね。向いてる仕事だよね。あと、かみさん大好きなんだねというのもわかった。ゲンドウへの投影が強固になったのはそのせいなんじゃないのさ。

 そして、メタ視点から表現も含めておおむね肯定的な感想。

samepa.hatenablog.com

 Qの展開に不満があった人に着地点があったことは、ほんとうに良かったと思うのと同時に、多方面でのさまざまな大人力の発揮を想像してしまう。これを庵野秀明による挑戦として尽力したスタッフの存在もすごく感じる。みんなやさしい。これは、私がおっさん化してスレた想像ばかりするようになっただけ、ということではないよね。ないと言って。

 戦闘表現については賛辞する感想が多くて、たしかに時間をかけただけの成果はあると思うのだが、先を行ってる感じはしなかった。CGについては、自分の目が肥えてしまったのかどうか判断がつかない。でも、深夜アニメでも「うおーっ」と感じる動きの表現はいまだにあるし、予算が潤沢になって制約がなくなるとスポイルされる巧さ、みたいなものがあるのかもしれない。とくにこの10年ぐらいは、アニメーションもCGもすごい表現ってたくさん出てきたし、ずっと止まってないんだよ。えらい。

 そこは、デカい体制でデカい作品をつくるなかで、いろいろな葛藤も想像できるんだけど、もう追いかけることには疲れてるようにも見えてしまった。そこがキモだったわけではないのだし、まったく理解できる選択ではあるんだけど。

 最後の父子対峙シーン以降は、制作側の好きなものや表現の玉手箱状態だったのではと思う。特撮の戦闘シーンを再現するためにCGを使って、ああ再現したCGだなってわかってしまうのは、再解釈になってない気がしてちょっと疑問だったけども。でも「これこれ、この表現すごくね!?」みたいな気持ちがすごく伝わってくる。海から上がるエヴァの線画とか、あれを原画のまま出したい気持ちとか。盛り上がる。

 でも、それがあるから全肯定なんじゃいと確信して突っ込んでいけちゃう危うさって、世間知らずじゃないと維持できないし、かつて少年や青年だった中年にとっては、アルコールの入る非日常で盛り上がるノリだなと思ってしまった。だって、いまのチルドレンには伝わんないじゃない。年寄りの道楽だよね。

 

 つまり、すべてをふまえて「ありがとう、時間掛かり過ぎだろ、おつかれさま」って言いたい。劇場を出て歩いてるとき、ずっとそんな気持ちだった。